3.11

地震の瞬間、私の勤務する支店はそれほど混雑しておらず、あと15分ほどで無事に閉店するはずでした。
最初は少しゆれているくらいだった横揺れはぐらぐらと少しずつ大きくなり、天井から換気扇のファンが落ち(幸いなことに落下地点に人はいませんでした)、自動ドアや大きなガラスの入った窓は大きくきしみ、支店内は一時騒然となりました。
揺れが収まってからすぐに窓口で対応をしていた後輩たちに、機械が動くかを確認させ、自分もすぐに窓口に出てお客さまの対応をしたのですが、手がふるえていました。
営業は無事終わり、現金の計算も無事あったものの、本部からは支店待機の指示がでて、交通機関が麻痺をしていたこともあり、その日は支店に泊まることになりました。
近くのコンビニ、スーパーへ買いだしに出かけましたが、こんなに人が歩いているのを見たことがないくらい、徒歩で家路を急ぐ人であふれていました。車は大渋滞でした。コンビニもスーパーもまずはおにぎりから、どんどんと品薄状態となり、支店の最寄のコンビニは停電となり営業すら出来ない状態となっていました。
中に人がいる状態だと、外を歩く人が中に入れて欲しいと迫ってくることを避けるために(業務上、現金を保管していることもあり、関係者以外を内部に入れることはできません)、最低限の明かりで一夜を過ごしました。テレビをつけてロビーのソファーに横になりましたが、断続的に続く余震と緊急地震速報の警報音で常に緊張状態にあり、ほとんど休めませんでした。
翌朝7時から一部JRが運転を再開するというニュースを見て、7時半過ぎにとにかく支店を出ようという話になりました。私と後輩は板橋駅まで歩いて埼京線を待ちましたが、9時過ぎになってようやく最初の埼京線がホームに入ってくるという状況でした。もちろんものすごい人が乗っており、私は乗ることができそうもなく、先に乗せた後輩に「乗れそうもないから先に帰って」と声をかけると「そんなことはできない」と中から引っ張ってくれてなんとか電車に乗ることができました。ただ、その電車は安全確認をしながらの運転だったため、板橋から大宮に出るまで本来であれば30〜40分のところが1時間半以上(2時間弱)かかりました。その後ダイヤの乱れた高崎線を待ち、結局帰宅できたのは正午をまわっていました。
帰宅した部屋は机の本棚からすべての本が落ち、ピアノの上から譜面や電気スタンドが落ち、机もピアノもたんすも強い揺れによって動いていました。
簡単に部屋を片付け、お風呂に入り、ご飯を食べて、12日の午後はほとんど寝ていました。
それでも家族や親戚、アックスも無事で、ライフラインも確保されており、本当によかったと思います。被災地で大きな地震津波に襲われた方はどれほど心細い日々を送っておられることでしょう。
人生何があるかわからないと痛感した出来事でした。今も不自由な生活を強いられながらも頑張っていらっしゃる方に自分ができることをしていきたいと強く思います。